扇森稲荷神社には祖霊社の古墳があります。
5世紀から6世紀頃(西暦では400年~500年)の遺跡で、扇森山横穴墓と稲荷山横穴墓群です。
日本には、古墳の近くにある神社や、古墳の上にある神社が、多数あります。
まつるということ
「古墳」とは、古代の豪族の墓です。
埋葬された方を弔う儀式や饗宴が行われたことが、祭祀(さいし)の始まりであり、祭祀とは、神や祖先を祀る(まつる)ことです。
それが、現代のお祭り(まつり)に、つながっています。
のりと 古代の言葉と神事
現代の神社で、神官が祈願する時によむ祝詞(のりと)は、神に祭祀の目的や意義をお伝えし、神をたたえ今あることに感謝し、祈る願いを古代の言葉で伝えています。
一説によると、祝詞では万葉集が編纂された頃(7世紀~8世紀)よりも、古い日本の言葉が使われているそうです。
また、元々は、祭祀の場に集まった人々に宣り下される(のりくだされる)言葉でもあったことから、「のりと」と言われるようになりました。
扇森山横穴墓
5世紀末頃(西暦400年代後半)に、稲葉川と玉来川に挟まれた河川流域で水を活用し、いち早く稲作等を行った人たちのトップの墓と考えられています。
墓にあったよろい(横矧板鋲留短甲)かたな(鉄刀)やじり(鉄鏃)は、その内容から、全国的に他の豪族の物と比較して、かなり地位が高かったことがわかるものです。
よろい(横矧板鋲留短甲)は、宮崎県にある国特別史跡の西都原古墳群(宮崎県西都市)や、えびの(宮崎県えびの市)にて、同じ形のよろいが発掘されています。
それに基づき九州南部との強い結びつきがあったことが推測されるのです。
そして、扇森山、稲荷山ともに横穴墓の向きが一定で、宮崎県側を向いていたことも符合しています。*稲荷山横穴墓群は、1987年の道路工事や宅地整備により消失していますが、資料や住民の談話から確認。
同じよろいが出た西都原(さいとばる)にいたっては、扇森稲荷神社がある拝田原(はいたばる)と地名が似ていることも偶然では無いと思われます。
横矧板鋲留短甲 読み:よこはぎいたびょうどめたんこう 短甲とも呼ばれる 竹田市歴史資料館
同じよろいが出土している西都原古墳がある西都原考古博物館の乗馬した像
出土品は竹田市歴史資料館に保管されています。
扇森横穴墓は私有地であり保存のため立ち入り禁止。
大分県地方史 昭和51年の記事→ 扇森山横穴出土短甲
稲荷山横穴墓群
稲荷山横穴墓群には、3つの横穴墓がありました。
かたな(鉄刀)馬に装着する道具(馬具)やじり(鉄鏃)が出土しました。
稲荷山横穴墓群 概要図 3基の位置 資料:竹田市教育委員会文化財課
稲荷山横穴墓群 1号墓 玄室内奥 上記の実測図と比較すると理解しやすいです。
2号墓は、道路工事の途中で発見されたため、大半が破壊されており、実測図はありません。
3号墓は、入り口に立てられた石の前に埋葬する儀式の時に使われた土師器(読み:はじき 素焼きの土器のこと)の破片がみつかっております。
馬具である杏葉(ぎょうよう)は、馬の前足付近やおしりのあたりにつける装飾物のことです。